「ふああ〜、そろそろ起きるとするか……」
 この北東北の街に来て2日目の朝。今日は昨日の教訓を生かし30分前にストーブのタイマーをセットしておいたので、すんなりと起きることが出来た。
「さてと、今日は昨日出したCDプレイヤーで何か曲でもかけてみるか」
 そう思い、俺は「ゲッターロボ」をかけた。ゲッターロボは俺のカラオケアニメソング十八番の1つだったりする。
「……ゲェッタースパァァク〜♪空高く〜♪見たか〜合体〜ゲェェェッタァァァロボだ〜♪ガッツ! ガッツ! ゲッターガッツ!!……」
 ささきいさお氏の歌につられ、ついつい口ずさんでしまう。
「祐一〜、朝から大声で歌わないでよ〜……」
「別に昨日みたいに体操しているわけじゃないから別に構わないだろ?」
「う〜、お願いだから朝から大声で歌うのも止めてくれない? 歌を聴くのは別に構わないけど……」
「諒解……」
 こう毎回抗議されてはキリがないので、俺は渋々歌を口ずさむのを止めた。
「おはようございます、祐一さん」
「あっ、おはようございます秋子さん」
 下に降り台所に向かうと、既に朝食の準備を整えた秋子さんが声を掛けてきた。どこか寂しげのある昨日とは違い、おしとやかで元気な雰囲気だった。
 ご飯に、味噌汁、焼魚……、テーブルに並べられている朝食は庶民的な日本の料理であった。だが、その絶品な味わいは庶民的ながらも三流の定食屋などでは到底味わえない一品であった。
 美味しい日本料理で腹を膨らませ、その後俺は腹休めの為居間へと向かった。
「祐一、わたし今日友達と一緒に街に買い物しに行くんだけど、良かったら祐一も一緒に行かない?」
 朝刊に目を通していると、名雪が声を掛けてきた。
「街って、あんな狭い商店街にか?」
「ううん、違うよ。これからわたしが行こうとしている所は……」
 名雪の話だとその街というのは昨日行った商店街のことではなく、北上川の西側にある同じ市内の中心街のことを指しているようだ。俺はこの辺りの地の利は相変わらず地図的知識しかない。市の名前や川、周辺の山脈名などである。故に誘ってくれるのは非常に有り難いことではある。
「悪いけど、今日は他に行きたい所があるから……」
 けど俺は他に行こうと思っている所があったから、名雪の誘いを丁重に断った。
「それなら別に構わないけど。祐一はどこに行くつもりなの?」
「自憂党党首、倉田一郎氏の家だ」
「……そんな所に何しに行くの……」
 呆れたような顔で名雪が訊ねてくる。
「いや、倉田一郎帝國の大本営ともいうべき地元の家を是非一度拝見してみたいと思ってな。それで名雪、悪いけど倉田廷の場所を教えてくれないか?」
「うん、分かったよ。ええとね、あの人の家は……」
 名雪の話だと倉田廷に行くには、国道397号線を真っ直ぐ西に50分弱歩けば着くという話だった。
 名雪から所在地訊き終え、俺は外出する準備をする。名雪には本当の理由を話さなかった。倉田廷に行く目的、それはただ単に家を見ることではなかった。母から言われた通り、この街に住んでいる一郎党首の一人娘に会いに行くことであった。でも名雪の前で一人の女性に会いに行くと言うのが何だか恥ずかしく、目的の一部分しか話さなかった。
 一郎党首のご令嬢、一体どういう人なのだろう? 仮にも政治家の娘なのだから、聡明で見識豊かな女性なのだろうか……? 期待と不安を抱えながら俺は水瀬家を発ち、倉田廷へと向かった。



第四話「二人の少女との出逢い」


 家を出て10分弱、北上川が見えて来た。この川を渡ってもまだ30分程掛かるのだから先が思いやられる。
「さあ、ここから一気に飛ばすぜ、タツ!」
「待ってよ、ジュン! こんなアイスバーンでスピード出すのは危ないよ!」
「危険を顧みず前進するのが漢ってモンだろ! 行くぜ! ゴッドフィィィィィルド・ダァァァァァシュッ!!」
 橋を渡ろうとすると、バイクに乗った二人組みの男が俺を横切って行った。顔はよく見えなかったが、Gガンダムの技を叫んでいたことからガンダマーの可能性がある。
「寒っ」
 橋の上は下から吹き上げる風により、陸地よりも肌寒く感じる。それにしても、橋の上から見える北上川は風光明媚という感じである。雪化粧された川岸が朝霧に包まれ、幻想的な雰囲気をより際立たせている。この県出身の詩人である石川啄木などが歌に詠んだだけのことはある。このような景色は帝都では到底味わえない。正に北東北の醍醐味と言えよう。
 もっとも、こうやって都会から来たばかりの者は風光明媚な雪景色を楽しむ余裕があるが、常に雪と戦わなければならない地域住民にして見れば綺麗な雪景色など生活に不要なものでしかなく、寧ろ雪があまり降らない機能化された帝都の方に憧れを抱くものだろう。
 結局の所、雪景色を美しいと感じるのは、そこに実際に住まわずに景色を楽しむ観光客や旅人の視点でしかないのかもしれない。
 川を渡り終え、20分程国道を西に進むと陸橋が見えて来た。名雪の話だと、この陸橋を渡れば目指す倉田低には5分程で着くとのことだ。陸橋を渡りながら下を見てみる。タイミングよく東北本線を下って行く電車の姿を見ることが出来た。
 陸橋を渡り終え、変則的な交差点に出た。その先のもう1つの交差点を越えた進行方向の左側に目指す倉田邸があるとのことであった。
「祐一く〜ん」
 倉田邸に行き着く直前の交差点を渡り、反対車線に渡ろうと信号待ちしていたら、後ろの方から聞き覚えのある声が聞こえてきた。この陽気で無邪気な声は間違いなくあゆのものだ。
 その陽気で無邪気な声で俺の名前を叫びながら、あゆは大きな紙袋を抱えて俺の方に走って来る。その走り方はさながら俺に抱き付かんとするように見える。
「見える!」
「えっ? わぁぁぁ〜〜」
 俺目掛けて元気に勢い良く走って来るあゆ。俺はそれを直前でニュータイプの如く反射的に後ろに避けた。
 勢いの付いたあゆは止まることを知らず、そのまま信号を渡った先まで走り抜けてしまった。幸いにも信号が青に変わった直後だったので車に追突するなどという悲惨なことにはならなかったが、例え信号が赤だったとしても反射的にあゆを避けた気がする。
 何故だろう、何故あゆの愛情を素直に受け取ることが出来ず、寧ろそれを拒否しようとするのだろう…。
「きゃっ!」
「げっ!」
 あろうことか勢いの付いたあゆは、先を歩いていた人の背中に思いっきり当たってしまった。不意の奇襲攻撃を食らってしまった歩行者は驚きの声をあげ、あゆの突貫に巻き込まれる形で地面に倒れ込んでしまった。
「お〜い、大丈夫か〜?」
 赤に変わりそうな交差点を大急ぎで渡り、俺は事故現場へと駆けつけた。
「うぐぅ〜、祐一君ひどいよ〜」
「え、え〜っと君、大丈夫か?」
「えっ、は、はい……」
 返事の仕方からしてあゆの方は大丈夫だと思い、俺は巻き込まれた人の安否の方をを気に掛けた。あゆに巻き込まれた人は、ショートカットでストールを身に付けた女の子だった。
「そうか、それなら良かった。こら、あゆ、ちゃんと前を見て走らなきゃ駄目だぞ。この女の子にちゃんと謝るんだぞ」
「うぐぅ〜、元はといえば祐一君がボクをよけたせいだよ〜」
「俺は不意に奇襲攻撃を掛けられ、生命危機に苛まれたと判断し、自衛の論理に基いて避けたまでだ。それを俺のせいにするとは冤罪も甚だしいぞ」
「うぐぅ〜、”えんざい”って何〜?」
「無実の罪をきせられるとかそういった意味だ。全く、そんな意味も知らないで俺に罪を擦り付けようなどとは半万年早いな」
 まあ、逆切れして謝罪と賠償を要求して来ないだけ、半島人よりはマシだけど。
「うぐぅ……」
「あの、お二人のせいじゃありません。私がもっと周りに気を配って歩いていればこのようなことにはならなかったです……」
 あゆと容疑の可否について論じていたら、意外にも被害者である少女の方から謝罪を申し立てて来た。
「あ、いや、そう言われると困るな……。どう見ても責任があるのはこちらの方だし、君が謝る必要はないよ」
「でも……」
「うん。ボクも祐一君と同じ気持ちだよ。ボクがもう少し周まわりに気をつかってればぶつかるなんてことはなかったし」
「おっ、偉いぞあゆ。ちゃんと自分の非の打ち所を認められたな。これで一歩大人に近づいたな」
 これであゆは半島人より優秀だと証明されたな。
「うぐぅ〜、ボクそんなに子供じゃないよ〜」
「大好きな人に周りを気にせず抱き付こうって行動が子供な証拠だ。人気のない公園ならともかく、街中で突然抱き付くなんて恥ずかしいだろうが! 少しは抱き付かれる俺の身になってみろ」
「うぐぅ……」
 しかし、第三者の居る場で自らをあゆにとっての「大好きな人」と形容するのに何の抵抗感を感じないのだから、俺もあゆと変わらないかもしれない。
「あ、あの、私は悪いことではないと思います……。自分の気持ちを周りを気にしないで思いっきりぶつけられる、そういうのって何だか羨ましいです……」
「……。そっ、そうだ、あゆお前が抱えている袋の中身って鯛焼きだろ? お詫びという事でこの娘に何個かあげるってのはどうだ?」
 少女の台詞が妙に恥ずかしくて、俺は咄嗟に話題を変えた。
「うん、祐一君名案だよ」
「あ、あのっ……」
「じゃあ決定だ。それとあげるにしてもこんな道端で食べるわけには行かないな……。ねえ君、悪いけどこの辺りで座って食べられるような所ってないかな?」
「はい、この先の公園で宜しければ……」
「じゃあ、そこで食べることとしよう」
 少女の返事を待たないで、俺は強引に話を進めた。単にお詫びをしたいという気持ちもあったが、何より直感的にこの少女から寂しげな雰囲気を感じたからだ。それで何となく放っておけないという気持ちになった。
 何故そう思ったかは自分でも分からない、ただ、どこか寂しげのあるこの少女を見ると自然と放っておけなくなる。それはまるで何かの積年の念を払い去りたいかの如くに……。



 ストールを羽織った少女に導かれ、俺は見知らぬ公園へと足を運ぶこととなった。二車線道路を南の方へと進み、途中から坂道へ入る。その坂道を登って暫くすると少女に右折するようにと指示された。
 二車線道路から一車線の小道に入り、民家の間を歩く。その道を歩いていると正面に樹林が見え、その樹林を囲むかのように道路が走っていた。少女が言うにはこの樹林が目指す公園であり、登坂になっている左の道の方へ進めば公園の入り口が見えてくるとのことだった。
 少女に案内されるがままに樹林の間を分け隔てた小さな隙間から公園の中へと入る。雪が降り積もった木々の間を歩いて行くと開けた場所に出た。右手側に規格化された並木道が見え、左手側には冬の寒さで凍り雪が降り積もった池、その奥には野球場らしき建造物が見える。また、正面奥には体育館らしき建物が確認出来た。
「ここです」
 並木道に少し寄った所に、屋根の付いた小さな休憩所があった。その中心には丸太を切り抜いたような特徴的なテーブルがあり、その周りを囲むように低めの丸太状の椅子が設置されていた。
 その休憩所は屋根付きとはいえ簡素な作りであり、椅子の上には雪が積もっていたが、手で払い除ければ難なく座れる程度の積雪量だった。
「さて、こう寒いと飲み物か何か欲しい所だな」
 少女から自販機の場所を聞き、俺は暖かい飲み物を買いに行く。あゆが鯛焼きを差し出すというのに私が無償で済ますのも悪い気がし、少女はそこまでしてもらわなくても良いと言ったが、俺は他の二人分の飲み物代を自前で払うことにした。
「さ、買って来たぞ」
 三人分の飲み物を抱え、私は休憩所へ戻った。俺は缶コーヒー、あゆは日本茶、少女はミルクティーとそれぞれ趣向の異なった飲み物であった。
「祐一君、祐一君、この娘しおりちゃんって言うんだって」
 飲み物類をテーブルに置き椅子の雪を払っている最中、あゆが少女の名前を口にした。
「栞……?」
「はい、栞、美坂みさか栞です。色々とお世話になる手前、自分だけ名前を伏せておくのも失礼かと思いまして」
 物静かながらもはっきりとした口で少女は自らの名前を語った。
「栞ちゃんか。年は?」
「えっと、15歳です」
「15歳か。あっ、俺は相沢祐一、17歳だ。俺より年下みたいだから呼び方は栞ちゃんで良いかな?」
「はい、構いません……。では私は祐一さんと呼ばせてもらいます」
「ボクは月宮あゆ、祐一くんの恋人だよ」
「こらっ、誰がお前の恋人だ!」
 ぽかっ!
 激しいツッコミと共に、私はあゆの頭を軽く殴った。初対面の人にいきなり衝撃的な自己紹介をしないでもらいたいものである。
「うぐぅ〜」
「ふふっ……。でも私の目にはお二人は恋人同士に映りましたよ」
「そうか? どう見ても出来の悪い妹とその妹に苦労を重ねている兄妹にしか見えなかったと思うんだけどな」
「祐一君……。ボク祐一君と同い年なんだけど……」
「えっ、そうなのか? 俺はてっきり2〜3歳年下だと思ってたんだが」
「うぐぅ……」
 もっともそれは冗談であり、あゆと自分が年が同じだということぐらい百も承知だ。ただ、今俺の目の前にいるあゆは年相応よりよっぽど幼く見える。そう、まるであの時から時間が経っていないかの様に……。
「そうですね、まるで兄妹のように親しい昔からの恋人という感じですね。そういう風に仲が良いの、本当に羨ましいです……」
「昔からの恋人か。ま、当たらずとも遠からずという感じかな。確かに俺とあゆは昔からの仲だけど、お互い会ったのは7年振りだしな」
「そうだったんですか。何だかドラマみたいですね、7年振りに再会した男女が再び恋に落ちるみたいな……」
「それはちがうよ栞ちゃん。だってボクは祐一君と会ってない7年間、ずっとずっと祐一くんのこと想ってたし、ずっとずっと大好きだったもん!」
 ずっとずっと想ってて、ずっとずっと大好きだった…。そうあゆの口から聞かされると心が痛くなる……。俺はあゆのことを忘れていたのに……。
 いや、違う……。忘れていたんじゃない、忘れたんだ、、、、、! ただ忘れていただけならあゆの純粋で無邪気な愛を素直に受け止めようとするだろう。だが俺はそれを受け止めようとせず、寧ろできることなら避けようとする。
 それは俺があゆの存在を記憶の中から掻き消したからではないだろうか。掻き消したからこそ、掻き消した筈のものが再び現れた事に一種の嫌悪感を感じているのではないのだろうか……?
「そういえばあゆ、鯛焼きはどうしたんだ?」
 毎度のように脇に抱えているのかと思っていたが、よくよくあゆを見ると、紙袋を脇に抱えている気配はなかった。
「冷めるといけないと思って、ふところであっためてたんだよ」
とあゆはコートの脇から鯛焼きの入った紙袋を取り出した。
「お前は豊臣秀吉か! ま、この寒さじゃ確かにすぐに冷たくなるだろうしな。いい心配りだぞあゆ」
「わっ、祐一君くすぐったいよ」
 子供を誉めるかの如く、俺はあゆの頭をくしゃくしゃと撫でた。当のあゆはくすぐったいと言いながらもどこか嬉しそうだった。
 不思議なものだ。あゆの愛情を真っ直ぐ受け止めるのには途惑いを感じるのに、こうやって無邪気にからかい遊ぶことには何の途惑いも感じず、寧ろ好感さえ持つ。近過ぎず、かといって遠過ぎず、それこそ古くからの幼なじみのような感覚であゆと接するのが、自分にとって一番好感が持てる距離な気がする。
「はいっ、栞ちゃん」
 あゆは紙袋から取り出した鯛焼きを、まずは栞に渡した。
「ありがとうございます……」
 その鯛焼きを栞は大事そうに両手で受け取った。
「はい、祐一君」
 次にあゆは俺に渡し、最後に自分の分を紙袋から取り出した。
「それじゃ、いただきま〜す」
 あゆの合図と共に三人同じタイミングで鯛焼きを口にした。
「何だか生暖かい鯛焼きだな……」
 人肌で温めていたせいか、その鯛焼きは焼き立てというよりは暫く保温していたような感じだった。
「はぐはぐ」
 そんな俺に気にすることなく、あゆは至福の笑みを浮かべてひたすら鯛焼きをむさぼり食っていた。
「どう、栞ちゃん?」
 そんなあゆを尻目に、俺は栞に鯛焼きの感想を訊いてみた。
「……」
 けど栞は鯛焼きを口にしたまま沈黙を続けていた。
「どうしたの? ひょっとして期待した程美味しくなくてがっかりしちゃったとか……」
「いえ、美味しいです……すごく……」
 ゆっくりと低い声で喋り始める栞。その声は何処か涙ぐんでいた。
「生暖かくて、人の温もりが伝わってくるみたいで、すごく……すごく美味しいです……」
 抱えていた何かが鯛焼きの温もりと共に崩れ落ち、栞の顔はくしゃくしゃに泣き崩れていた。その涙を堪えることなく、栞は一口一口大事そうに鯛焼きを口の中へと運んだ。
 栞がどんな辛いものを抱えていたか、それは俺には分からない。けど、この一件でその辛さを少しでも拭い去ることが出来たのではないか、他人事ながら俺はついそう思ってしまう。
「今日は本当にありがとうございました」
 鯛焼きを食べ終えた後、栞は俺達にぺこりとお辞儀をし、公園を出た南側の坂道の方へと過ぎ去って行った。
「さてと、俺はこれから行く所があるんだけど、あゆはどうする?」
「うん、ボクちょっと栞ちゃんのこと気になったから後をおうね。じゃあね祐一君、また今度」
 そう言い終え、あゆは栞の過ぎ去った方角へと駆け抜けて行った。あゆも俺同様に栞の抱えていた何かに気付いたのだろうか…? そんな事を考えながら、俺は当初の目的である倉田廷を目指し道を引き返した。



「ここか……」
 もとの交差点に戻り暫く歩くと、「新自由党岩手県第四総支部」という看板が見えて来た。看板の上を眺めると事務所らしき建物が見え、その裏には古い木造家屋が見える。恐らく奥の家が目標の倉田廷なのだろう。
 ピーンポーン!
 家のベルを鳴らして反応を待った。その瞬間からある一種の緊張が始まった。一郎党首の一人娘に会うのに今更ながら緊張感が走る。政治家の娘なのだから政治には詳しいだろうが、ハマーン様はともかくキシリア=ザビのような人だったらどうしよう。ミネバ=ザビのようなケースもあるだろうが、現実にそれを求めるのは妄想もいい所だろう。目の前の扉が開くまで終始そんなことを考えていた。
「は〜い、どちら様でしょうか〜?」
「あっ……」
 目の前に現れた女性を見て、俺は暫し言葉を失った。おしとやかで気品溢れる声、高嶺の花のように美しい顔立ち、その何もかもが自分の理想の遥か上を行っているようだった。
「あの〜どうか為さいましたか?」
「えっ……あ、あのっ、何と言いますかその……わ、わたくしこの街に越して来たばかりの者でして……。父が新自の党員でして、その、一度御党首の家を見て来いと言われまして……」
 緊張のあまり言葉にならない言葉を喋ってしまう。それにしてもこの女性、何処かで見たような……。
「まあ、このような所にわざわざ訪ねて来て下さったのですか? 折角訪ねて来て下さったのですから、家の中でお茶でもどうですか? 家には佐祐理さゆり一人しか居ませんが、どうぞごゆっくりして行って下さいね」
「佐祐理……?」
「ええ。新自由党党首倉田一郎の長女、倉田佐祐理と申します。宜しくお願い致しますわ」
「は、はいっこちらこそ。俺……いや、私は相沢祐一と申します。私の方こそ宜しくお願い致します!」
「あははーっ、そんなに硬くならず、普通の喋り方で構わないですよー」
「は、はぁ……」
 硬くならなくて良いと言われても、この佐祐理さんの前ではとてもではないが普通に喋られそうにない。



 自己紹介を済ませ、俺は佐祐理さんの案内で倉田廷の中へと入った。佐祐理さんが自分の名を自称しているのは子供っぽい印象も受けたが、不思議に違和感は覚えなかった。
「さ、ここが客間ですわ。今御茶をお持ち致しますので、それまで暫しお待ち下さいね」
「は、はい!」
 気品溢れる敬語で終始応対する佐祐理さん。客人には阻喪のないようにとの意図から敬語を使っているのだろうか。しかし、その態度が自然と佐祐理さんの威厳をより深いものとしている。まさに政治家の娘と言えるだろう。
 佐祐理さんがお茶を運んでくるまでの間、俺は倉田廷の客間を観察していた。その部屋は古い日本家屋の割には洋間の構成で作られており、テーブルは半透明のガラステーブルであり、椅子はフカフカの黒色のソファーだった。
「お待たせ致しました〜」
 客間のドアが開き、お茶と茶菓子らしき物を抱えた佐祐理さんが入って来た。
「はい、どうぞ」
 俺に茶を差し出す動作をすることにより、自然と佐祐理さんの顔が近付く。その近付いた瞬間、俺は思わずドキッとしてしまう。高嶺の花のような美しい佐祐理さんの顔からは、近くで改めてみると豊穣の海のように広くて温かい優しさが伝わってくる。
 政治家の娘なのだから戦略性を込めてこのような応対をしているのだろうと思う節もある。けど、佐祐理さんの顔を見ていると、自然とそんな考えは消え去っていった。この美しく広く、そして温かい笑顔は戦略性など微塵にも感じさせない。本当に私を心の底から迎えてくれているのだ。
 そう思うと自然と顔が赤くなっていまう。目の前にいる佐祐理さんは正しく自分の理想とする女性だった。
「ところで祐一さんのお父上は新自の党員というお話でしたが、不都合がなければお父上のお名前をお教え願えないでしょうか?」
「はい。私の父は相沢隆一りゅういちと申します」
 開口一番、佐祐理さんが俺の父の名を訊ねてきた。別に父の名前を秘密にしておく義理はないので、俺は何の躊躇いもなく佐祐理さんに教えた。
「あははーっ、何処かでお聞きしたことのあるお名前だと思いましたら、やはり隆一さんのご子息でしたか〜」
「えっ、父をご存知なのですか?」
「ええ。隆一さんは父が岩手県下の党員の中でも特に目を付けている方ですから」
「へぇ〜」
 自分の父親が一郎党首が目を付けていると言われ、俺は感嘆するしかなかった。
「しかし、私如きの父が党首のお気に入りだとは光栄の限りですね」
「あははーっ、そうご自分のお父上を過小評価することないですよ〜」
「ところで一郎党首は私の父のどの辺りに目を付けているのですか?」
「そうですわね。父が言うには隆一さんの魅力はその何物にも捕らわれない海のように広い見識の広さに尽きるという話です」
 まあ、見識が広いというか、大らかな所はある。一応俺の帝都での一人暮らしを認めてくれたし。母さんが猛反対して、結局こっちに来ることになったけど。
「そう言えば隆一さんは今度の衆院選に出馬為さるんですよね?」
「ええ」
「相沢御本家には資金面で父も色々とお世話になっていますから、隆一さんが立候補する際には父も進んで支援されると思いますわ」
 この地に家を構える我が相沢家の本家は、その資産力から代々倉田家の後援会で重要な地位を占めており、両家の関係は密接なものだと聞いたことがある。
 そんな関係なのだから分家である我が相沢家の者が出馬する時、一郎党首の支援を受けられるのは別段不思議なことではない。



「あっ、もうこんな時間か……」
 ふと腕時計を見たらあと数十分で正午に差し掛かる所だった。時間を気にせず佐祐理さんと夢中で話していたので、もうそんな時間になったのかと思うばかりだった。
「では正午も近付いてきたことですし、そろそろ帰ります」
 帰るには丁度良い時間だと思い、俺は佐祐理さんに案内されて倉田廷の玄関へと向かった。
「今日は貴重なお時間を戴き、どうもありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ〜。お暇な時はまたいつでもいらして下さいね〜」
 玄関先まで見送ってくれた佐祐理さんに深々と礼をし、俺は倉田廷を後にした。色々と話したいこともあるし、何より佐祐理さんは魅力ある女性だ。佐祐理さんの言葉に甘えて、機会があればまた来ることにしよう。
「ふう、鯛焼きや茶菓子を食べたとはいえ、そろそろ昼飯にしたい所だな……」
 そう思い、何処か飯にあり付ける所はないかと、俺は未だ知らぬ街の中へと溶け込んで行った。


…第四話完

※後書き

 改訂版第四話です。この回から栞と佐祐理さんが本格的に登場してきます。日記などで何度か言っておりますが、佐祐理さんの父親のモデルは、現民主党議員の小沢一郎氏です。物語の舞台となっている街出身の政治家なので、モデルとした次第です。原作でも佐祐理さんの父親は議員をやっておりますが、恐らくは市議会議員か県議会議員でしょうね。
 ちなみに相沢家という家も舞台となっている街に実在します。小沢氏と関係があるかどうかは知りませんが(笑)。何やら私の家と間接的な関係があるとの」ことなので、モデルとしました。モデルとしただけで、実際の相沢家とは一切関係がありません。
 まあ、そんな訳で祐一は、父方の本家は資産家で、母方の祖父は海軍軍人という、裕福な環境で育った子ということになりますね(笑)。

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